「保護」という名のデジタル終焉

檻の中の神童たち

日本と欧州連合(EU)が、ブリュッセルで開催されたデジタル閣僚級協議で、インターネット上における未成年者保護の重要性で一致したのを、単なる子供たちの安全保障と捉えるのはいささかおめでたいかも‥。

デジタル閣僚級協議が合意した未成年者保護の強化は、表向きは「デジタルなカジノ」と化したSNSから純真な魂を救い出す聖戦に見える。だが、その背後に透けて見えるのは、自由奔放だったインターネットという「荒野」の完全なる開拓と、管理社会への最終段階でもある。

現在のSNSは、子供たちの承認欲求をアルゴリズムという餌で釣り上げ、無限スクロールの檻に閉じ込める「アテンション・エコノミー(注目経済)」の極致にある。これにメスを入れることは、人道的には正義だろう。しかし、その処方箋として提示された「厳格な年齢確認」こそが、実はネットの匿名性に引導を渡す劇薬なのだ。

年齢を確認するという行為は、裏を返せば「誰がそこにいるか」を国家やプラットフォームが完全に把握することを意味する。「子供を守るため」という免罪符のもと、私たちは全世代にわたるデジタル・アイデンティティの紐付けを、かつてないほど寛容に受け入れようとしている。かつて匿名性の海で育まれた「ハッカー的感性」や、既存の価値観を破壊するような危うい知性は、このクリーンな無菌室の中では窒息せざるを得ない。

皮肉なことに、ネットを安全にすればするほど、そこから「毒」と「創造性」が同時に失われていく。将来、サイバー防衛の最前線に立つべき「手練れ」たちは、清廉潔白な教育コンテンツの中で牙を抜かれるだろう。また、依存性を奪われた人々が現実世界に放り出されたとき、待ち受けているのは豊かな時間ではなく、行き場を失った過剰なエネルギーによるリアルな衝突かもしれない。

結局のところ、真の贅沢とは「接続しない自由」へとシフトしていく。富裕層が子供をあえてアナログな環境で育て、ネットの喧騒から隔離する一方で、大衆は管理された安全な檻の中でレコメンドされるままの人生を消費する。日欧の合意は、その二極化への号砲とも取れる。

私たちは今、子供を守るという大義名分の影で、インターネットが持っていた「自由という名の危うさ」を永久に手放そうとしている。その代償が、あまりに退屈で透明な、しかし完全に管理された「静かなる社会」であることを、私たちは覚悟しておくべきだろう。